無知から始める読書習慣

読んだ本の感想と日々の変化記録

『神経質に対する余の特殊療法』森田正馬 読んだ感想

 

 

前回岩井寛の『森田療法』を読んだのに引き続き、森田療法を編み出した本人である森田正馬の『神経質に対する特殊療法』を読んでみました。

 

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神経質に対する余の特殊療法

神経質に対する余の特殊療法

 

 

 

まず、大正十年に世に出たものなので、旧字体が多くとても読みづらかったです。

しかし、しっかりと内容を理解したかったためにちゃんと調べて全部読みました。

読んだ甲斐あり、内容を把握することができ、新しい考え方(古い時代のものなのに)を得ることができました。

 

 

よく言われているのは森田療法は東洋の思想が濃く反映されているということです。

この本が出たのは大正時代ですが、当時は西洋の文化が盛大に日本に入り込んできた頃なのだけれども、その中で東洋的な考え方を大きく取り入れた治療法というものを森田は作り出した。

 

 

ざっくり言うと、患者は入院して隔離、一週間は何もしないで過ごしてもらう。

雑念とか色々と出てくるだろうけれども、それをどうこうしようとはしないで、あえてそのままにしてしておく。

 

一週間経ったらあとは徐々に慣らして最終的には今あることをそのまま受け入れて、やるべきことに取り組むことができるようになっているという。

(実際はもっと複雑に説明されています)

 

根本目的は『精神の自然発動』です。

 

注射療法、薬剤、新聞広告による治療的迷信に陥れる弊害などを否定しているところに個人的には好感が持てました。

 

現代によく見られる対処療法的なものではなくて、根本にあるものを説いています。

その根本にあるものとはやはり精神なので、その在り方というか、示唆するために禅だとか、仏教だとか、孫子の兵法とかを用いて例を出して説明していて、勉強になりました。

 

昔の日本人はもっとこういった教えというか、在り方的なものが身近にあって、近代化するにつれてその精神性というものが薄れていったのでは?という疑問も出てきた。

 

ただ、宗教的なものを引用しているだけではなく、否定をしているものも多々あったので(神経質者に対しては)、やはりこの時代ならではの新しい考え方でもあるのだろうなと思いました。

 

 

 

 

 

で、森田は何が言いたいのかというと、焦燥が出てきたら排除したりごまかしたりしようとしないで、その正体を見つめて、それが〝ある〟ということを認めるのだということです。

 

そうしてあるものはあるとわかった上で、それとは別に行う事を行う。

 

 

私も色々なあがり症とか不安症とか本を読んでみましたが、一番しっくりときたかもしれない。

感情が勝手に出てくるわけで、それは脳内で勝手に作り出されていて、自分の意志でどうこうできるものではないということに薄々気づき始めていたからだと思います。

 

それを悪いものだ、なくすべきだと、どうこうしたところであるものはあるのです。

 

 

天気で例えると、嵐は勝手にやってくるけれど、その自然現象を人間がどうこうしたってどうにかなるわけではない。

これと同じことではないかと私は悟りました。

そして嵐はずっと続くわけでもなく、そのうちに去っていく。

 

 

 

不眠についても書かれているのですが、ずっと不眠であった私は読んでハッとした。

それは、不眠の患者は実際眠っているのにも関わらず、眠ったという気がしないので、その不眠の恐怖から起こる問題であるという。

 

これに対して、時間を選ばず眠るべしと書いている。

もし眠くならないのであれば、一週間起きているのもいいし、逆に昼間に眠ってもいいのだと。

決して努力して眠ろうとしてはいけない。

 

この入眠に対しても深掘りされて書かれていましたが、非常に納得するものでありました。

 

 

読んでいて思ったのは、私はマスメディアに影響されまくっているのだなということ。

本来時間が短くても長くても眠れているのであれば問題ないのに、「〇時間以上寝ると〇〇だ」とか、「〇時間以下しか寝てない人は〇〇だ」といって、恐怖を煽りマーケティングを行っている世の中だと知ったのは随分大人になってからです。

 

睡眠に限らず、やっぱり物を売るために、本来は気にすることもないのに問題を作り出す人がいて、それを気にしてしまうから神経質を助長してしまうこともあるのだなと。

(マーケティングについては書かれていませんが読んで私が思った事です)

 

 

 

神経質のカラクリが書かれていて、一般的にされている療法とは違ったアプローチになっているのですが、これが好感が持てる。

治療しなくても、この本を読めば色々と解決してしまうようなそんな気が起きます。

思ったのは、やっぱり本を読むのと読まないのとでは全然違うなと。

 

この本のように青空文庫で0円で読めるような本にでも、宝のような内容が詰まっていることを知ると、普段いかにどうでもいいようなコンテンツを見ることに慣れてしまったのかがわかります。

 

 

私はこの本を読んで、結論は無理しなくて良かったんだ、いいんだということです。

ただ、この感想とは逆に、森田療法では最終的にはやはり恐怖の中に飛び込むことを推奨しています。

 

この最後の部分にだけ私は疑問が残ったのですが、どんな状況や環境であれそこに馴染むことができるの精神を持つことが、この療法の最終目的でもあり勇ましさを感じました。

 

 

ただやはり自分が望んでいない場所で恐怖に突入しても、悪化をするだけだと思うので、やはり心の底から湧いて出てきた目的に向かえるような道を見つけることが大事なのかなと思います。

 

経済第一、消費経済の世の中に疑問を持っているからという理由もある。

 

そして、やっぱりお金の問題があると、なかなかこのループから抜け出すのも難しいとも感じました。

 

 

また時間を置いて読むと感想も変わるかもしれません。

 

『森田療法』岩井寛 読んだ感想

 

 

森田療法 (講談社現代新書)

森田療法 (講談社現代新書)

 

 

あがり症をどうにかしたかったため、以前から気になっていた森田療法を読んでみました。

 

この本は森田療法を創始した本人である森田正馬ではなく、もっと後に生まれた岩井寛という精神科医によって書かれた本です。

 

Amazonで一番レビューの数が多かったので選んだのですが、あとから森田正馬本人の青空文庫を発見。

神経質に対する余の特殊療法

神経質に対する余の特殊療法

 

 こちらが本家なので、後にこちらもじっくりと読んでみたいと思う。

少しパラパラと読んでみたところ、昔の書物なのでとても読みにくい感じでした。

 

 

神経症の治療法について書かれているのですが、現在では西洋の精神分析が主流となっているのに対して、森田療法は東洋の思想が強く反映されたものになっている。

 

森田は日本における精神分析学の黎明期に活躍した人物である、東北大学の丸井清泰とよく論争になったという。

 西欧崇拝熱の強かった当時の学説と、東洋の思想が強かった森田とでは融和しようはずがなかったとのこと。

 

 

西欧

神経症者が何らかの形で心の内に内在させる不安や葛藤を分析し、それを異物として、除去しようとする傾向がある。

 

 森田療法

神経質者の不安、葛藤と日常人の不安、葛藤が連続であると考える。

したがって、その不安、葛藤をいくら除去しようとしても、異常でないものを除去しようとしているのであるから、除去しようとすることそれ自体が矛盾だということになる。

 

 

〝異常〟ではないものを除去しようとしている

 という文にハッとさせられます。

 

 

そして一番の肝である部分は

〝神経質者は「かくあるべし」という自分の理想の姿を設定してしまう〟という部分。

理想が高く、完全欲へのとらわれが強いのだそうだ。

 

森田によると、神経質者は「生の欲望」が強いのだそうです。

これは意外でしたね。

しかし読んでみると確かにその通りなのです。

〝よりよく生きたい〟と思えば思うほど、〝よりよく生きられなかったら〟という不安が強くなってしまう。

 

 

〝かくあるべし〟という理想と〝かくある〟という現実が衝突して、この両者が離れれば離れるほど不安や葛藤が強くなり、神経質者は現実と離反してしまうという。

 

 

で、この〝かくあるべし〟なのですが、やはり厳格な父親など、厳しい親に育てられたりすると、この考え方の傾向が強くなるのだそう。

家族それ自身がすでになんらかの形で教条主義的な傾向を持っており、真面目で几帳面で融通がきかないというニュアンスが強い

 そこに育てられる子供も、自然に〝かくあるべし〟という傾向が強くなってくる

 

 

 

 

 

そこで森田は『あるがまま』という理念を立てる。

人間には美と醜、善と悪が同時に存在する。それが人間性の真実であり、事実だと。

つまり人間には常に相反する志向性が内包されているということです。

 

なので、どちらか一方を切り捨てて、他方にのっとっていくというわけにはいかず、どちらも認めた上で自己実現したい方の自分に従っていくというもの。

逃避したいという欲望はそれは当然のものと認め、それはそのままにしておいていいという。

 

「目的本位」という言葉が出てきますが、これはアドラーを彷彿させるなと思いました。

この本を読んで思ったのはやはり自発的な「目的」をもつことってとても大事だなということ。

目的を達成したいからこそ、何かを乗り越えることができる。

 

 

まとめ

本の内容は半分納得で、半分はなんかモヤモヤするなといった感情が残るものでした。

それはたぶんこの本が昭和に書かれたもので、その当時の時代背景を元に書かれているからなのではないかと思います。

 

ただ、ハッとさせられる部分や新しい発見、参考になることは本当に多く、読んで良かったです。

 

 

森田療法が数年前から気になっていたので、やっと手にすることができてスッキリしました。

余裕がある時に、森田正馬本人の方の書物も読んでみたいと思います。

 

 

「内向型の生き方戦略」読んだ感想 ~社会から出て境地を開拓する~

 

 

プライムリーディングを眺めていたら気になる本があったので読んでみました。

 

 

内向型の生き方戦略という本です。

頑張っても頑張っても社会に馴染めない人におすすめです。

 

この本に書いてある通り、私も世の中には8割が社会に馴染める人で、2割が馴染めない。そういう造りになっていると思っている。

 

 

私は30過ぎまで頑張ったが、今さらになってただ無駄に消耗していたのだと気づいた。

『境地を開拓する』というサブタイトルがついているのですが、ちょうど今山暮らしを考え始めていていて、情報収集していた頃なので、タイミングよくこの本に出会えて励みになりました。

 

境地開拓といっても、山暮らしだけのことを言っているわけではないとは思いますが、とにかく人が行かないような道を行く。そうした方がいいといったことが書かれています。

 

 

今の若い世代には無駄に消耗することなく、早くこのようなことを書いている本に出逢って、一般的ではないかもしれないけど、自分にピッタリの唯一の生き方を模索してくれたら素敵だなと思います。

 

 

今、辛くて辛くて、どうしようもない人にはめちゃくちゃおすすめの本ですが、私のようにもう既に吹っ切れてしまっている人には少し退屈に思える本かもしれない。

 

 

外交的な人は「社会維持型」、内向的な人は「境地開拓型」にわけられる。

これを読んだ時にはすごくしっくりときました。

 

その「社会維持型」の多数のための社会に馴染めないと、「〇〇病」とか「〇〇症」とかつけられてしまう。

これはもうめちゃくちゃ納得で、別にもし社会の枠にハマらずに、規定外でやっていいのであればわざわざ病名とかみんなつけられなくて済むのになと思っているこの頃です。

 

しかし、そうなってくると問題なのはやっぱりお金だと思います。

たぶんお金さえあれば多少枠からはずれてようが、変わり者だと言われようが、それぞれに嫌なことは避けて、自分の特性を活かして生きていけると思いますが、基本的に内向型で困っている人というのはお金がなくて困るということに陥るのではないでしょうか。

 

一部の人はそこから抜け出せるかもしれませんが、大体の人はそのゾーンに行くまでに時間がかかるのでは・・。

 

この本ではそこまでは詳しく言及されていませんが、別の本でその方法について紹介されているようです。

 

人が増えすぎたから殺す?宮本百合子『鬼畜の言葉』読んでみた感想

 

今回はまた青空文庫で無料で読める古いものを読んでみました。

1949年ということで、戦後間もない頃の文学ということになります。

 

昭和の文学とか詳しいわけでもなく、『鬼畜の言葉』というタイトルだけを見て読もうと決めたのですが、内容はその通り、まさに『鬼畜の言葉』についてでありました。

 

冒頭から「新しい日本に生きる喜び」という文が出てきて、当時戦後をを生きた人の生の声があり想像が掻き立てられます。

そしてこの頃から「世界の平和」という言葉が使われていて、みんなそれを願っていたのだという事を考えるととても感慨深くあります。

 

 

そして、当時の日本人の残虐性について怒りを覚えているのだろうなということが、文を読んでいて窺えます。

 

「人の命を荒っぽく扱うにならされた日本のすべての人が、ひとの命、自分の命の尊厳を知ること。」

この文で気になるのが〝ならされた〟という言葉で、元々はそうじゃなかった(かもしれない)という意味を含んでいるのだと私は解釈しました。

 

それから、〝ひとの命、自分の命の尊厳を知ること〟これはまさに現在進行形で胸に留めておかなければいけない言葉だと思います。

 

 

私はあまり戦争については詳しくないのですが、戦後間もなくの文章ということで、当時の問題になっていた話題が出てきます。

『吉村隊の残虐』という話が出てきますが、調べてみるとたぶん↓についてのことなのかなと思われます。

「暁に祈る」事件 - Wikipedia

 

ただ現在のWikipediaなんかを読んでも、あやふやな部分もあるのかなと感じました。

中古ではありますが、そのことについての本も出ているようです。

活字の私刑台―暁に祈る事件の真相

暁に祈るまじ―私刑に泣いた吉村隊事件の真相 (1972年)

 

 

この本のタイトル『鬼畜の言葉』は当時日本の人口が増えすぎて困っているということに対して放った鈴木文史朗の言葉についてが肝となります。

「理想的なやりかたは、ひと思いに何千万を殺すか、自殺かだ。」

 

 

確かにこの言葉は鬼畜だ。

しかも「自殺かだ」って一体なんなんだ・・・。こわ・・。

 

 

文史郎のこの言葉に対して、宮本百合子

アメリカで何を学び、どう語ることを学んで帰ったというのだろう〟

〝戦時中彼はヨーロッパ漫遊をしてナチスと兄弟となっていた日本権力の活躍ぶりを視察して、本も著している〟

〝日本人の残虐性は根づよいと思わずにいられまい〟

と語っています。

 

 

 

宮本百合子の怒りは最後の文にまとめられていて、現代に生きる私の心にも非常に強く響きました。

 

わたしたちは、自分を、何千万かを殺す立場におこうなどとは思えもしない人民である

 

人間らしい心のすべての日本人の声として、つよく抗議する

 

日本に残っている封建的感情は、ハイ・ボールの一杯機嫌で気焔をあげるにしても、すぐ殺生与奪の権をほしいままに握った気分になるところが、いかにもおそろしいことである

 

この種の人々は、どこの国の言葉が喋れるにしろ、それは常に人間の言葉でなければならないということを知るべきである

 

 

鬼畜の言葉

鬼畜の言葉

 

 

短編小説『桜の森の満開の下』坂口安吾 感想ネタバレあり 青空文庫 

 

 

桜の森の満開の下

桜の森の満開の下

 

 

 

 

坂口安吾の『桜の森の満開の下』という短編小説を読んでみました。

 

この小説を読む前に、梶井基次郎桜の樹の下にはという短編小説を読んだのですが、どちらもパンチの効いたものなので、ダブルで読むと尚更に「桜の美しさと恐ろしさ」といったものがズシンと重くのしかかってきます。

 

 

感想を書くと、とても気に入りましたが、今後はもう気軽には読めないと思います。

その理由の一つが、物語の中盤辺りで女が生首のコレクションをし、それで首遊びをする描写があるのですが、それがなかなかに生々しくネチネチとしていてとても気持ちが悪い。

その非現実的な様子がリアルに想像できてしまうところも、この作品のすごいところです。

 

 

まず物語の序盤では、一般に通っている「桜」の常識が覆されます。

一般的には桜が咲くと酒を飲んでみんな陽気になるが、それは江戸時代からのことで、大昔は〝桜の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした〟とあります。

 

これは本当のことなのか、この小説の中での設定なのかはわかりませんが、妙に説得力があるようなそんな気もします。

 

 

とにかく、桜の木の下に人間の姿がなければただ怖いだけですといった話が頻繁に出てくる。

読んでいるうちに、確かにそうかもしれないと思えてきた。

 

この小説に出てくる怖い桜の森は『鈴鹿峠』と呼ばれていて、調べてみると三重県に実在するもののようです。

 

 

主な登場人物は山に棲み、追剥をして人を殺し、女は妻にするという惨たらしい男です。こんな惨たらしい男でも、桜の木の下に行けば気が変になるという。

そんな男が街道を歩いていた夫婦を見つけ、亭主は殺し、女は妻にしたのですが、この女が曲者で、美しいのですが超絶我がままなのです。

 

 

美しいので、男はいう事をよく聞いた。

しかし、女は美しいのだが男はなぜか不安になる。

桜の森の満開の下を通る時(の不安)に似ていると思ったのです。

 

 

山の生活に飽きた女は山を降りて都で生活をしたいと男に頼み、都で生活するようになりますが、そこでの生活の描写はほとんど生首遊びばかりです。

もう、ここの部分は今後はあまり読みたくない部分ですね。

ここの部分はしばらく耐えて読まなければならない。

たぶん女はサイコパスだと思います。

 

 

女の果てしない欲望にも疲れ、男は山が恋しくなり、帰る決断をします。

なんとこの時男は女を殺すことを考えていた。

とても心理描写が独特なのですが、でも妙にしっくりとくる何かがある。

 

個人的には男の

〝山へ帰ろう〟

〝山へ帰るのだ〟

〝なぜこの単純なことを忘れていたのだろう?〟

という言葉がとても印象的でした。

 

女は一度はいつものように男を窘めますが、男の決意が揺るがないことがわかるとしおらしくなり、涙を流しながらお前がいないと生きていけないと泣いた。

そんな女を見た男は嬉しくて夢見心地になった。

 

 

最初に出逢った時のように男は女をおんぶして山を登る。

 

なんとこの時、桜の森の花盛りの時です。

 

 

そしてその時は突然やってくる。

男はなぜか急におぶっている女が鬼であるということに気が付くのです。

 

男は走り、おぶっている鬼を振りほどくと鬼は下に落ち、男は鬼の首を絞めて殺した。

しかし、我に返ると殺したのは鬼ではなく、いつもの女であった。

 

男は初めて泣いたという。

 

 

そして、そのうち女の姿はなくなり、幾つかの花びらになっていた。

 

これだけでも驚くところなのですが、その花びらを掻き分けようとした男の身体も消えたというのだから驚きです。

 

 

 

この最後の終わり方がなんとも不思議で、怖くもあるのですが神秘的でもあります。

そして色んな捉え方ができると思います。

 

私は最初は、女が桜の森の化身であり、人間に化けて暮らしていたのだと解釈したのですが、男も消えたとなると、桜の森に何かそういった力が働いており、どちらともその力に吸い込まれて消えてしまったと考える方が自然なのかなと思いました。

 

また、最初から男も女も存在していなくてただの幻想であったという考え方もできるのかなと思いました。

 

とにかく、最後の終わり方は神秘的で怖くて奇妙で衝撃が走ります。

 

 

 

青空文庫〝桜の木の下には〟梶井基次郎  読書感想

 

夜暇だったので、何か小説を読みたいなと思い、kindleで探してみて見つけたのが「桜の木の下には」という小説です。

青空文庫なので0円で読めました。

桜の樹の下には

桜の樹の下には

 

 

最近は明治時代や昭和初期の作品を読むときは、読む前に作者のことを調べてから読むようにしています。

Wikipediaには生まれてから31歳で病気で亡くなるまでの人生が事細かに書かれているのですが、死んでからここまで細かなことまで世の人に知られてしまうのか、と私は少し恐ろしさを感じました。

 

 

しかも、その内容を読んでいて私が一番印象に残ったのは、

〝泥酔した基次郎が「俺に童貞を捨てさせろ」と大声で叫んだため、仲間たちが遊郭に連れていき、女がくるとゲロをわざと吐いて困らせたがその後は大人しく部屋に入っていった。

その後支払いのために時計を質に入れ、「純粋なものがわからなくなった」「堕落した」と仲間に言った〟

というエピソードです。

梶井基次郎 - Wikipedia

 

このエピソードが色んな意味で衝撃すぎて、悲しいことに一番印象に残ってしまった。

 

 

作者の風貌は、割とゴツゴツした感じの男らしい男といった感じで、「桜」がつく題名の作品を考えるようには見えないのですが、実際に小説を全部読んでみると内容は結構ダークです。

しかし、すぐに読み切れるくらいに短いものなので、あとに残らなくさっぱりとしている。

 

 

Wikipediaを読んでいて思ったのですが、繊細な心の持ち主なようで、その憂鬱な部分が「桜の木の下には」でも表れているのではないかと思います。

 

 

 

以下ネタバレ感想

 

 

 

 

 

桜の美しさを大絶賛する一方で、「桜の下には死体が埋まっている」と想像することによって、その神秘を感じるほどの美しさに対する不安を解消しようとしている。

 

桜はその腐乱した死体を木の根で包み込み、その体からでる水晶のような液を吸っているからこそあんなに輝いているのだという、桜にとってはとても迷惑な想像なのですが、これが梶井の心の均衡を保っている考え方だとしたら、とても滑稽でしかし人間の生々しいダークな部分がよく描写されているように思いました。

 

小説『運転者ー未来を変える過去からの使者』読んだ感想 

 

かなり久しぶりの更新となってしまいました。

ここ数カ月全然本を読んでいませんでした。

 

たまには小説が読みたいなと思い、kindleで探していると何となくいい感じの本をみつけたので読んでみることに。

 

 

運転者 未来を変える過去からの使者

運転者 未来を変える過去からの使者

 

 

 

以下ネタバレを含めて、正直な感想を書いていきます。

 

 

 

表紙とタイトルだけ見て読もうと決めたので、どういった内容なのかはまったくわからない状態で読みました。

 

大まかにストーリーを説明すると、保険屋で働くもどうも人生が上手く回っていかない主人公がある時タクシーに乗るのですが、その運転手が主人公の人生を変えるきっかけとなる。

 

『運転手』とは運を転換させるという意味で、ただ車を運転させているだけではない。

 

 

ただ、その運転手が最初の方は私には少し説教臭い感じに思えてしまった。

自己啓発を小説にした感じの本だなと思いました。

 

 

自己啓発本は昔よく読んでいたので、私はもう結構お腹いっぱい感があり、途中で読むのをやめようかなとも思ったのですが、やっぱり何でも最後まで見てみないとわからないものです。

 

 

やっぱり後半から面白くなってきて、最後の方は涙が出てきてしまいました。

先人が何を思って戦争で死んでいったのか、自分たちは残してくれたものをどう使い、未来に何を残すのか・・・という現代では忘れ去られてしまったようなことを思い出させてくれました。

 

内容も難しいわけではないので、スラスラ読める感じの小説だと思います。