読書を習慣にするようになってから3年ほどが経ち、知識量が増えたことによりさらに知りたい事が増えました。
Amazonのアンリミテッドを眺めていると、この本が目にとまりました。
「勉強するのは何のため?」という本ですが、思えば今まで「何のため」なのかをしっかりと考えたことはなかったように思います。
今現在私が習慣として本を読んでいるのは、生活を楽に(よりよく)するため、知的好奇心を満たすための二つだと思っていますが、子供のころから大人になるまでずっと勉強する意味がわからずに過ごしてきました。
子供のころに学校の先生に「なんで勉強しなきゃいけないの?」と生徒が尋ねる場面を何度か見たことがありますが、返答に困っている先生ばかりでした。
「なんとなく将来役に立つから」というぼんやりとした理由で勉強をしている人が多かったのではないのでしょうか(今の子供はもっと能動的に勉強していることを願いたい)。
まずこの本を読んで得られた答えは
自由に生きたいように生きるため
ということです。
書いてある内容はもっと幅広いのですが、この一言で私の「何のために勉強するのか」といった謎は解けました。
子供の頃にこういったことがわかっていれば、もっと勉強していたのかもしれない。
それとも、今だからこそ響いたのか・・・。
例えば読み書きや計算ができなければ、公共機関を利用するのが難しく、契約書の内容がわからずに騙されたり奴隷のように働かされたりする・・・それは不自由なことである。だから勉強をする。
もう一つ大きく印象に残ったのが
自由の相互承認
という言葉です。
お互いがお互いに、相手が「自由」な存在であることを、まずはいったん認め合うこと
とされていますが、なぜこれが必要なのかは戦争を繰り返した歴史や、過去の奴隷問題について知ることで理解をしていきます。
簡単に言ってしまえば土地や資源の奪い合いで、戦争が繰り返されてきたわけですが、哲学者はこうした問題を解決できないのかとずっと考えてきた。
ルソーやヘーゲルが引き継ぎ
「なぜ人間は戦争をやめることができないのか?」といった問いに「それは、人間がそもそも「自由」になりたいという欲求をもっているからだ」という答えを出した。
動物同士の争いの場合だと勝敗がつきボスが決まれば争いは収まった。
しかし歴史上人間は多くの場合負けて奴隷にされて自由を奪われるくらいなら、たとえ死ぬことがあったとしても征服者に戦いを挑むことを選んできたという。
奴隷の反乱というものは、歴史上数えきれないくらい起こってきたのだそうです。
ここら辺の戦争や奴隷といったジャンルは苦手なのでこれまで意図的に避けてきたため疎い部分ではありますが、この本で簡潔に書かれていてわかりやすかったです。
今後戦争や奴隷についての本も読んでみたいと思います。
そんな惨たらしいことを繰り返していた歴史ですが、哲学者たちがどうしたらみんなが自由に生きることができるのかということを考えた結果出てきたのが「自由の相互承認」で、まずはいったん相手が自由な存在であることを認め合うことだという。
この原理を最も強調したのがヘーゲルで、このシンプルな考えにたどり着くのに人類は1万年もの歴史を費やしたとのこと。
そして現在では「基本的自由権」(生存・思想・良心・言論・職業選択の自由など)といわれるものを持っている。
しかし、法がどれだけ生命の自由や言論の自由また職業選択の自由なんかを保障していても、私たち自身に、みずから生きる力、言葉を交わす力、職業につく力などがなければ、それは絵に描いた餅にすぎない
この部分を読んで勉強をする理由がさらに理解できると思います。
どれほど自由が保障されていても自身にその能力がなければ結局は縛られたままなのだと考えられます。
例えばの話、無人島にたどり着いたとして、魚を釣って火を起こして焼いて食べたいと思ったとする・・・。
しかしその方法を知らなければ魚を釣ることも火を起こすこともできないのです。
その方法を習得するために勉強をする必要がある。
そうすればおいしい魚が食べられる。
食べられなければ不自由を感じる。
公教育(学校制度)についても書かれていますが、これはやはり問題点が多いものなのだなと、個人的に感じました。
いじめ問題や体罰問題についても書かれています。
一方的に課題を与えて絶対的な答えがあるかのような問題の出し方をして答えを出させるといったやり方はもはや時代遅れで、他の国ではすでに自ら問題定義をし、それについてみんなで意見を出し合って考えるというやり方が主流だそうです。
これはやはり北欧の方の学校制度を見習うべきなんじゃないかと私は思いました。
とはいっても内向的な人が多く、同調圧力が強く、みんなが同じであるべきだといった考えが根強い日本で能動的な方に転換したところで、またそのレールからはずれてしまうものが出てくるのだと思います。
これは「二者択一の罠」といって、この本の中で強調されていますが「こちらが正しくてあちらが正しくない」「こっちがよくてあっちが悪い」といった問い方の問題に私たちはよく引っかかる。
だから本当は「教育はこうあるべき」なんて絶対的な答えもない。
この本の一番の肝の部分は、「正解は人によって違う」という部分だと思います。
こんな当たり前のようなことなのに、世間では白黒をつけたがる場面によく遭遇します。ついこの前のテレビでも「いじめられる方が悪いのか、いじめる方が悪いのか」なんてお題の番組をやっていましたが、問題は「どちらが悪いのか」を決めることではないのでは?と強く疑問を感じたものです。
著者が提案しているのは二者択一でどちらが正しいのかを決めることではなく、どちらもそれなりに納得できる第三のアイデアを見つけ出そうということです。
一般化の罠
(自分だけの限られた経験を他の人にもあてはまるものとして考えてしまうこと)
二者択一の罠
(あちらとこちらどちらが正しいか?と問われるとどちらかが正しいんじゃないかと思ってしまう傾向がある)
この二つに普段から気をつける必要がある。
そして、この考えを世の中の人が自然とできるようになってくると、世の中はもっと人間らしく生きやすいものになってくるのではないでしょうか。
学校の問題については、オンライン学習も現在では充実しているし「学校で学ぶ」とい
う一つの選択肢に縛られる必要はないと私は思います。
「学びの機会を学校に独占させるのではなく、社会の中でネットワーク化する。そして自分に合ったもの、自分に必要なものを学んでいく」
といったことは1970年代にはすでにイヴァン・イリッチという人物が「脱学校社会」という本を出して提唱していたみたいですが、この時代にすでにこのようなことを主張していた人物がいたことに驚きました。
イリッチの
「本来学ぶべきことや価値のある事は一人一人違うはず」という言葉はもっともで、もっと学びの多様化が進んで苦しむ子供たちが減ればいいなと思いました。
もっとも現在では日本でも様々な学び方が導入されてきているみたいなので、これから徐々に変わってくるのでしょう。